2012年1月14日土曜日

ブタレへ→自転車便→虐殺が行われた場所→50000から12→死臭→覚えている事と忘れる事→みんな同じ→冷たい血


1月11日
6時起床。

ブタレ(フエ)行き。一人2500R(350円)

バスの中から見えるのは緑の山々、そして木々。
こんなに平和に見えるこの土地が18年前には・・・と思う

人々をぼんやり眺めていると圧倒的に40歳以上の年代が少ないように感じる。
それは70万人ほどの人が犠牲になりなくなったからであろう。

この人数はルワンダ国民の10%以上に相当するので日本で考えると1500万人以上、つまり国民の7人にひとりが亡くなったということになる。
これに被害者の家族、加害者、その家族を加えるとその当時ルワンダで生活していた人々のほとんどが何らかのかかわりをもったのであろう。

それがどうしてこのように平和になったのか。

これは是非調べてみたい。

ただ、込み入った問題であるのでだれかれ構わず尋ねることは出来ない。

10時過ぎにブタレ郊外に到着。
そこから町まで1kmほどをタクさんんらに荷物を手伝ってもらいながら歩く。

宿を7000Rで決め、虐殺が行われた場所を見に行く前に昼ごはんを食べておこうと、カフェに入り食事を済ます。

しかし食べていると突然豪雨に。
僕らはともかくタクさんらはビザの関係で本日中に訪れないと見れなくなってしまう。
ので、雨が降る中バス停へ。

思った以上に寒い。アフリカがこんなに寒いとは・・・

冷え切ってバス停に着くと雨がやむ・・・。

記念館のあるギゴンゴロまではミニバスで30分ほど。

ギゴンゴロの町から博物館まではバイク便で500Rと聞いていたのだが、自転車便があったので200Rで乗っていく。
博物館まではけっこうな下り坂。
未舗装でガタガタのなか飛ばすのでけっこうスリルがある。
現地語しかはなすことのできない兄ちゃんとあれこれ話す。ムズングなど聞いたことのある言葉も出てくる。

2・5km先の博物館に到着。改装中のここは見た目はきれい。そしてまわりも緑が広がり平和な雰囲気。ここでそんな事が起こったとは・・・

入場すると案内が来てくれた。

改装中の部分はキガリのものと似ている。きれいになりすぎて伝わってこない部分もある。
ここではフランス軍を頼りに50000人のツチ族の人々が避難していたのだが、フランス軍の撤退と同時に押し寄せたフツ族過激派によって6時間ほどの短い間に50000人ほぼ全員が殺害されたそうだ。


生き残りは12名のみ・・・。


案内をしてくれた僕と同い年、さらに1日違いの誕生日の男性の説明は「今ではほぼ問題なく実に平和になっている」とのことだが、これだけのことがあり、身近な家族の命が失われているにも関わらず18年の間で心から許す事が出来るのだろうか?

本当に心からの許しが出来ているのであればルワンダの人々のメンタリティには学ぶ分が多いはずだ。
猜疑心の強い僕はそんなものは簡単に出来るはずがないと疑ってしまうが、実際おおらかなアフリカ人のメンタリティであれば可能なのかもしれない。

虐殺後この敷地の片隅に捨てられ放置されていた遺体を数年前に火葬したとのことがだ、いまだに2000体の遺体はまだ教室内に残されているというので教室へ行く。

24部屋の中に安置されている白くミイラ化した遺体

一つ目の部屋の中に入ると目に飛び込んでいるのは人の形をした白い石膏。
しかし石膏などでないことは部屋中に充満したすさまじい死臭から思い知らされる。


18年もたっているのに・・・。


火葬されていないため、腐敗して朽ちた内臓の部分がへこみ、皮膚がそのまま骨にへばりついている。
中には髪の毛の一部分が残っていたり、歯が残っている遺体もある。
その中にももちろん頭蓋骨を割られている痕、不自然な形に折れた腕の骨など無残な形跡が・・・
赤子とも思われる小さな遺体の数も物凄い数・・・

次の部屋に入っても死臭は変わらず・・・アサは2部屋目でギブアップ。
個人的も入って気持ちよいものではないが、見たい、見たくないではなく、全部見なければ、悲惨な過去から目をそらしてしまう事になってしまいそうに感じたので全ての部屋を見せてもらうことに。

途中で案内してくれていた男性に用事が出来、変わりに場所を案内してくれる事になった女性。
この女性は、虐殺の中で生き残った12人の1人のようだ。

彼女は現地語とフランス語しか話せないため込み入った会話ができなかった事が残念だが、12名が生き残った理由は、逃げたのでも、助けてもらえたのでもなく、彼女らは死んだ遺体だと思われたからとのこと。
奇跡的に助かった彼女だが簡単に「幸運だったね」などと声をかけることが躊躇われるような過酷な人生を歩んだのだろう。

24部屋の中にはきれいに火葬され、ケースに安置された遺体の部屋もあったがそこは匂いが消えていた。
言い方は悪いが虐殺の痕跡が残っているうちに来ることができて良かった。
日本では原爆の博物館「酷過ぎる・・・」とのクレームからきれいにしてしまったようだが、本当に伝えなければいけないものはリアルに残さなければならないのだろう。

繰り返さないためにはその酷さを正確に知らなければならない気がする。
その後、同い年の彼と会話するが、歴史の事には口を濁し、近くのレストランの話題に話を移そうとする。

もしかしたら彼にとっても話しにくいことなのかもしれない。

しかしそんな彼が映画「ホテルルワンダ」の話になったときにだけ「あれは嘘だ!!あの男はビジネスマン!!金を払った人間しか助けなかった!!」と感情を込めて言ってきた。実際そうだったのかもしれないが、もしかしたら彼がフツ族出身だっからかもしれない。

もちろん自分の国の悪しき歴史を伝える事は簡単なことではない。僕らにとっても南京事変など加害者側であった歴史について説明を求められる時は、自分自身が攻撃されている気分になってしまうほど複雑な心境になることがあるのだから。

ここにはルワンダの虐殺を知らない若い世代の学生も来るらしく。僕らと同じように「なんで?どうして?」と聞くようだ。

残酷な出来ごとを疑問に思えるような若い世代が育っている事はルワンダにとって明るい未来なのだろう。
彼が「今ではツチ族もフツ族もなくみなルワンダ人だ!!」と言っている事が本当で、今後それが南北朝鮮、ひいては世界全土に広がればいいなと思う。


みんな同じ人間、同じ生き物なのだと。


結局、どうやって民族問題が終結したのかはわからなかったが、自分にとっても考えさせられる場所であった。

帰りは上り坂になるためか自転車便は一台もいなかった・・・。
ので歩いて帰ることになったのだが、この虐殺があった土地の近くで育っている子供たちの笑顔の可愛いさには救われるものがある。


人生はやりなおせるのだと。


昔の悲惨な面影のない平和な風景に。
悲惨な歴史を繰り返さないためにしっかり覚えておく事と同じように、新たな未来の始まりとして忘れる事の大切さも必要なのだろうなと強く感じた。

後悔だけでなく受け入れ次に進むことが時には必要なのだと。

2・5km歩いて戻る間、林業がさかんなこの地域ではなたや斧をもっている人々が道路を歩き回っている。被害者はもうこの光景に恐怖を覚える事はないのだろうか?などとついつい考えてしまいながら町へと戻る。

町に戻りタクさん、サユさんと最後のご飯。

美味しく食べられる辺り、ぼくらの感情は疲弊しなかったということなのかもしれない。それはもしかしたら僕が悲惨な歴史を単なる他人事として感じているのではないかと自分の血を少し冷たく感じる。

食べた後、バスに乗りブタレへ。
隣に座ったNGO事務所で働いているルワンダのおじさんと(同い年ぐらいかな?)話す。彼も最近のルワンダは平和である。
虐殺の恨みがなくなった理由としてルワンダは人口が少ない(1200万ぐらい?)からお互いに協力しないといけないし、政府がコントロールしようとした際には意思統一もしやすいといっていた。

しかし本当だろうか?

タクさんサユさんと別れ、明日のブルンジ行きバスを捜したが無かったので、とりあえず軽食を食べ宿に戻る。疲れていたのか21時過ぎから寝る。

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