2011年9月11日日曜日

掃除→イブラヒム退院→出発決定→日本人の宗教観→個人的な宗教観(まとめ)


9月8日


本日は静養日。


朝から、掃除、洗濯を本格的に行う。


シーツもあらかた綺麗に洗濯し終わり、家全体を掃除した後ゆっくりしていると、イブラヒム退院の連絡が。


ようやく元気になってきたらしいが、まだ自力で歩く事は出来ないようでしばらく、自宅療養するそうだ。


早くイブラヒム・ピースハウスに戻って来ることができたら良いと思うが、時間がかかるかもしれない。

いずれにせよ、退院でき家族のもとに帰れたのは良い事だ。


イブラヒムも、この家の宿泊人数もだいぶ落ち着いてきたので僕らもそろそろ出発しようと、3日後イスラエルを出発し、4日後にエチオピアへ飛行機で飛ぶ事をを決める。


ホネストに出発を告げると「とても残念だが、今まで手伝ってくれてありがとう。

最後に君自身の宗教観について聞かせて欲しい、それとなぜ日本人は神を信じないかについても教えてくれ」と言われる。



この質問はこの旅中に何度もされた質問。



最近宗教に関わる場所へ訪れたり、様々な宗教の考え方を聞いたりする中で思うところもあったので、この際自分の考えをまとめて話してみることに。



・まず、日本人はなぜ神を信じないか?について。


日本人はもともと主に仏教や神道など主に日本生まれの宗教を信じる国民であった。


過去にキリスト教が入りかけたときには徹底的に弾圧・排除されたことなども考えると鎖国していたお国柄か異国の宗教の受容度は低かったようだ。


しかしこの時期のように神(仏だが)を熱心に信じていた時期もあったことは事実。


それでは、信心深さが無くなっていったきっかけは何だろう?と考えてみると、

理由の一つは、第一次(第二次)世界大戦の経験にあるのではないかと個人的に考えている。


戦時中、日本では天皇が神として神格化されて扱われており、人々は天皇(神)の名の下に戦った。


しかし、戦争に敗れた際「天皇は神ではなくただの人である」という事実が国民の前に突きつけられた。



つまり、信じていた神が一夜にしていなくなったのである。



ある日、突然「キリストは実はいかがわしい詐欺師であった」という事実が判明したのと考えるとわかりやすいだろう。


多くの人々はその事実を受け入れる事が出来なかったが、天皇(神)自身がそう認めたので受け入れざるを得なかった。


その過程で、日本国民の神への信頼は大きく傷つき、損なわれた。


戦争直後の荒廃した時代の中、新しい神を捜すには日本人は忙しすぎたし(復興のためには神よりも金が必要だった)、敵国だったアメリカの宗教をただちに取り入れられるほど器用な民族でもなかった。


結局は日本人の神に対する不信感が今なお続いているのではないか。と


戦後60年を越える間に、少しずつ空白のスペースに、商業的戦略と共にキリスト教がやってきた。(サンタクロースとチョコレートと共に)その中でも昔ながらの伝統を引継ぎ(墓参り、初詣)などを行なっているところを見ると、日本人に一番近い宗教は今でも、仏教や神道なのかもしれない。


損なわれた神に対する信頼が回復した段階で、もしかしたら日本に再び信仰心が芽生えるかもしれないが、現時点では「特定の宗教がなくても生きていける」という考えが強い。



次に「僕自身の宗教観」だが、結果だけ述べるとやはり「特定の宗教は持っていない。」ということになる。


ただ、それは全ての宗教を真っ向から否定しているということではない。


今までの旅行中チベットやミャンマーでは「貧しい生活の中、世の中の平和を、他人の幸せを願い続け、信じることを諦めない人々」の姿に感動し、

スペイン・フランスの中では「言葉の壁、人種の壁を越えて大きな家族のように仲良くしてくれた巡礼者」と共に歩き、

イスラム圏では断食をしている僕のことを「自分の事のように心配してくれ、食べ物をみんなで分け与えあい、共に生きる大切さを教えてくれた人々」に出会った。


これらの人達と触れ合う事によって、彼らにとって宗教は非常に大切なものであり、また実際に効果もあるのだ感じた。


一方で、これらの宗教(僕が関わっていない宗教もまだ世界にたくさんある)に順位付けをすることは僕には出来ないし、どれが正しくてどれが間違っているということも出来ないとも感じた。(どれも正しいし、ある意味においてはどれも間違っているのである)


要は使い方なんだと思う。

どの宗教でも正しく理解し、それを実践する事で自分が幸せになり、他の人も幸せになるのであればとても良いものだと言えるが、逆に根本は正しかったはずの宗教でも、自分が心地悪かったり、他人に嫌な思いをさせるのであれば悪いものになるのだろう。(宗教の為の戦争なんて本末転倒もいいところである)


結局、答えが無宗教になってしまうと何も考えていないように思われるかもしれないので最後に個人的な宗教観というか「こうだったらいいな」という哲学を述べる。


僕の思うところは、「人々が自分の出来る範囲で今より少しずつでも他人に対し理解しようという心を持ち、親切にしようという考え、実践すれば、少なくとも今よりは良い世の中になるのではないだろうかと思っている。」


「決して無理することなく、一人で背負い込む事も無く、ただそれぞれが一歩ずつ前に踏み出せば世界は大きく変わるのにな」と。


だから僕も自分の出来る範囲で行う。日本に帰ってからの仕事で言えば、僕が関わった子供達が昨日より少しでも人生を楽しむ事が出来るようになればいいなと。

(これがけっこう難しい事ではあるけど)


「まとまらないけど大体こんな感じかな?」とホネストに話し終わると、彼は僕のへんてこな英語も含め一応理解してくれたようで。

「ありがとう。君の意見を聞かせてくれて」と言ってくれた。


この旅に出て、様々な文化・価値観に出会う中で、「みんなが共有できる真理というか哲学は存在するのだろうか?」と探してみたのだが、それはけっこう難しいことのようだ。


考えてみれば人類が誕生して長い歴史があるが、今までに完璧になしえた人物がいないのがその証拠なのであろう。


キリストにせよアラーにせよ仏陀にせよ。彼らは真理にたどり着いたと言うが、それを認めるのは彼ら自身とそれぞれの宗教を信じる人だけなのだ。

一般的に世界で優れていると思われている人達でさえ、全ての人に受け入れられるだけの真理は発見できなかったのだから僕みたいなごく普通の人間が、真理を見つけるというのは極めて難しい、もしくは不可能なものなのであろう。

例えるならば砂漠の中にあるといわれる井戸をスコップ片手に捜しに行くようなものなのだろう。


まぁ「100人中100人に当てはまる真理は無い」というのがある意味では真理なのであろう。


最近の世界的な歴史・政治の流れから考えると「力が正義だ」というのが一つの真理になっているようにも感じられる。


モハメッドがイスラム教を興すときにジハード(聖戦)を行ったことも、十字軍が、イスラム教の国に打ち勝った事も(何度も失敗したが)結果的にそのタイミングでは勝利したから正義となっているだけで、失敗していたらただのテロリストで終わっていたのだろう。

極端だが、9.11を機に世界中がイスラム教過激派の思想に染まっていればビンラディンは革命を成し遂げた英雄となっていただろうし、オウム真理教ですら仮に市民権を得ていれば世界的な宗教になっていたかもしれない。


何が良いたいのかというと、人々の認める価値観、正義感、正論などというものは極めて曖昧なものであり、使い方によっては非常に危ないものになるのではないかということだ。(赤信号みんなで渡れば怖くないのように)

だからこそ個人個人が流されるだけでなく、自分の頭でしっかりと考えていく事も必要なのであろう、と。


さて、ここ数ヶ月なんとなく宗教的な方面へのアプローチが多くなった気がするが、結果的には振り出しに戻るかたちで現時点では自分には「特定の宗教が無い」ということがわかった。

これ以上、この方面にばかりウェイトをかけすぎると頭が凝り固まってしまいそうなので、もうそろそろ違う方面にウェイトをかけるべく、一応宗教に関してあれこれかんがえることは本日で終了。


そろそろアフリカ大陸旅行に向けて方向転換。日記も今後はもう少し短く読みやすくなっていくと思います。


本日は結局、観光せずのんびり過ごす。晩ご飯は日本人メンバーで和風パスタ作りをしました。

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