5月28日(土) 巡礼36日目 22km
今朝も5時45分に起床。キッチンへ行くと韓国人の夫婦が朝ごはんを食べていた。英語で挨拶すると「おはようございます!!」と日本語で挨拶してくれたので「アンニョンハセヨ~!!」と返す。いい人そうである。今回の旅の間に出会った韓国人の年配の夫婦はパワフルで優しい人が多い。旦那さんはグイグイと引っ張っていく感じで、奥さんは亭主を立てるもののエネルギー溢れる下町のおばちゃん系。僕たちは韓国人の人達と仲良くなることが多いのだが、情熱的で真っ直ぐな人がとても多いことに驚かされる。(もちろん違う人もいるけど)教育、アーミー経験、儒教などなどの理由があるのだろうな。
竹島問題などのニュースをテレビで見て韓国人は日本人が嫌いだというイメージを植えつけられがちだが実際に旅中に出会う人はそんなことはなく親日家の人が多い。テレビによる情報の植え付けは怖いものである。まぁ中には日本人を嫌いな人もいるのでしょうが、多少の好き嫌いは誰にでもありますからね。おばちゃんから韓国お菓子を頂いてしまいました。ありがたや。
本日も7時出発。今日も朝方は肌寒くアサは久々にジャンバーを着こんで歩いている。空気が凛と澄んでいる中をゆったり歩くのは気持ち良いものです。特に朝日に照らされて徐々に生命力をみなぎらせていく植物や、気だるそうに草を食べている牛達を見ながら歩くときには幸福感すら感じてきます。(なんだかおじいちゃんの散歩のようですが・・・)
歩き始めて1時間半ほどで丘の上の教会に辿りつく。ここで巡礼者の垂訓と日本語でかかれたプリントをもらう。その言葉をメモしておく。
巡礼者の垂訓
1 巡礼者は幸いである。巡礼が見えないものにあなたの目を開くなら。
2 巡礼者は幸いである。あなたが最も気にしていることが、ただ辿りつくことではなく、他の人と一緒に目的地に到着することであるならば。
3 巡礼者は幸いである。巡礼を観想し、それが名前と何か新しいものの始まりで満たされていることを見出すならば。
4 巡礼者は幸いである。あなたのリュックが空っぽになり、心が静けさと生命で満たされるならば。
5 巡礼者は幸いである。一歩戻って誰かを助けることの方が、わき目をふらずただ前進することよりも、はるかに価値あることだということを見出すならば。
6 巡礼者は幸いである。全ての予想外の驚きに対して深い感謝の気持ちを表現する言葉を持たないとき。
7 巡礼者は幸いである。ただあなたが巡礼をするのではなく、巡礼にあなたを変えさせるならば。
8 巡礼者は幸いである。道々、真の自分に出合い、立ち止まり、見つめ、聴き、自分の心を大切にすることを知るならば。
9 巡礼者は幸いである。真理を求めて、巡礼を、道であり、真理であり、生命である方を求める、「生命への道」にするならば。
10巡礼者は幸いである。あなたの巡礼が終わったときに本当の巡礼が始まることを知るのだから。
原文を日本語に無理やり直しているため理解しにくい部分も多いがそこは雰囲気で想像してみてください。
この中でも4番の内容の「巡礼はあなたをより単純にしてくれる。それはリュックがより軽ければ、背中の緊張はより少なくなる。そのことで生きるために本当に必要なものがどれだけわずかなものであるのかを体験できるから」という感じの部分は何となく好きです。
自分にとって本当に大事なものを知りシンプルに生きたいものです。
今回上の分を写すのに疲れたのであと適当です・・・一日1時間以上はパソコンに向かいたくない・・・・。アサは昼寝してるし・・・。
今日は途中パンプローナという大きな町を通ると聞いていたのですが、なんのなんのパンプローナの町以前から続々と巨大な町が登場してくる・・・。フランス側の静けさはどこへやら・・・フランスから歩いてきて良かったな。と二人で感じる。
町に落書きが増え、車が走り回り、食べ物を求める人がゴミ箱をあさり、人々が挨拶をしあわなくなった・・・・たぶん日本では日常のこの風景も1ヶ月ぶりに目の当たりにすると非常に悲しくなってしまう・・・・「人々にとっての幸せとはなんぞや」と自己問答してしまいます。これはいくら考えても「これだ!!」という答えが浮かびません。
車がビュンビュント走り回る中歩いていると・・・・大型スーパー、お洒落なパン屋・カフェを発見!!そうそう都会にはこういう僕らが好きなものがある。だからバッサリと「都会は駄目だ!!」などと言い切ることが出来ない。結局中途半端な人間なのである・・・。
しかしカフェやパン屋を諦め僕が「都会は駄目だ!!」と宣言したとたん人は僕の事を「偏屈ジジイ」と呼ぶのでしょう・・・まぁ理想は理想、現実は現実なので、どの辺りで折り合いをつけるのかが今後の課題である。
都会で教会、でっかい人形が歩いているパレードなどを見た後、疲れてきたので次の町へ向かうことに。・・・が、なかなか町を出ることが出来ない。意外とでかいぞこの都会!!歩くこと30分でようやく遠くに緑の山々発見。砂漠の人にとって湖がオアシスのように都会の人にとっても自然はオアシスなのかもしれません。心か体かの違いだけで自然がないと人間はカラカラになってしまうようです。
歩くこと1時間でCizur Minorに到着すると雰囲気がだいぶ落ち着いた。日本に帰ったら都会の生活にすぐ順応するのはわかっているのだが、今はもうしばらく自然と仲良くしていたい。
今回のアルベルケは一人4ユーロと激安。食料も「適当に使って寄付ボックスに使った分だけお金を入れといて!!」というおおらかな場所。なんか凄くいい。この「人を信じる豊かな心。」自分にはそれが不足しているのが今後の課題です。
晩ご飯までは教会などを周りブラブラ。
18時になったので晩ご飯を作ろうとすると、イタリア人グループが食堂を占領。宿の食料も大部分彼らだけで使ってしまっている・・・こういう使われ方をすることも多いから寄付制にするのはやはり大変なことも多いのだろうと思う。
僕らは久々に野菜たっぷりのパスタを作りアサご満悦。
食後、20時よりミサがあるというので教会に出かける。今回は旅人のためではなく定例のミサのようだ。行ってみるとちょうど始まりかけたところのようで、司祭さんがなにか聖書の言葉を述べた後に参拝者が同じ言葉を繰り返しているところだった。ほうほう、と聞いていると、なにやらモンゴルのホーミーのような「ホニァャャャャー」という音が聞こえてくる。音の主を探すと僕らの斜め前に座っている80歳ぐらいのセニョールのようだ。どうやら彼は他の参拝者が早口で司祭の言葉を繰り返すのについていけず、それでも頑張ってあわせようとした結果、口の中でホーミーサウンドが作り出されてしまっているらしい・・・もちろん「ホヤャァャー」というホーミー言葉なので司祭さんの次の言葉までに間に合わない・・・・そこでセニョールが考え出したのが、”フライング”司祭さんが言い終わる前からスタートし始めちゃいます!!そして司祭さんの次の言葉までに滑り込みセーフ。「おぉ凄い・・・」と思わず唸ってしまいました。
さて今回ミサを受けてなんとなくキリスト教の効果の仮説が浮かびました。(仮説なので適当に聞き流してください)それは「キリスト教自己暗示論」・・・というのは、野球選手が自分のジンクスとして「バッターボックスに入るときは左足から」とか「朝ごはんはカレーを食べて」見たいな感じで「ミサに出とけば今週は大丈夫(死んでも大丈夫?)」と思い込むためのものなのでは?と、なんとなく。だから何か悪いことがあっても神が与えてくれたんだとか前向きに生きられる。週に一回のミサはそのポジティブシンキングの給油タイムなのかとにらんでおります。
まぁ仮説です。
今回のミサは終盤にちびっ子司祭たちがお布施を集めに来るという、子供を使ったえげつない資金集めをしておりました。まぁ授業料として小額寄付します。
そして待っていました「聖なるせんべい!!」今日も期待を裏切らずに登場です。本日は司祭一人とアシスタントの子供司祭3人だったためどう演出するのかと思ったら。子供司祭の一人が厳かに鈴を取り出し他の子供司祭に配る。そして台座の後ろに身を潜めたと思った瞬間、満を持して千両役者の聖なるせんべいが登場(よっ、まってました!!)。そして登場したその瞬間・・・・・(チリリリリーン!!)ま・ま・ま・まさかの効果音を伴っての登場です!!(もちろん音の主は3人の子ども司祭)「こ・こ・こ・こどもだましが~!!」と感じたのは僕だけのようで他の参拝者は膝を地面につき「ありがたや~」としている・・・さらに次に司祭さんが聖杯を掲げると・・・・(チリリリリーン!!)またもやお遊戯会レベルの効果音が・・・ひょっとしてあなたたちが一番神を冒涜してるんじゃないですか???最後に秘密の金庫の鍵をあけると中から参加者に与えるための大切な聖なるせんべい登場!!こんなところに隠していたとは。
それにしても聖なるせんべいは期待を裏切らない。これは次回のミサも楽しみになってきました。以上ミサ潜入調査まだまだ継続中・・・キリスト教の秘密を知る道程はまだまだ遠い。
22時就寝。
hoso
0 件のコメント:
コメントを投稿